日頃よりお世話になっております。院長の金澤です。
田中病院創設80周年記念ページをご覧いただきありがとうございます。
田中病院は私の祖父で内科医の田中豊一が九州から関西へ移住し西宮の鳴尾で診療所を開業したのちに、
現在ラーメン和海がある辺りで2つめの診療所を開業したのがはじまりです。
その数年後の昭和19年12月25日に現在の土地に田中病院が開設されました。
開業時は戦時中であったため当時の病院の日誌には空襲警報発令が頻回に記載されており
昭和20年8月15日終戦直前の8月6日、西宮に空襲が、
10日には尼崎に空襲があり多くの患者さんが搬送されたと記載がありました。
いまは亡き父が当時は中学生で鳴尾に川西航空機の飛行場があったため
グラマン戦闘機がよく飛来してきたと生前に語っていたことを思い出します。
祖父の弟は外科医でしたが戦時中は叔母が持つロウソクの光を頼りに手術をしていたと聞いています。
また日誌には終戦の年の11月20日に進駐軍視察と記載がありました。
開設当時は祖父の弟たち3人が医師ということもあり
内科・外科・耳鼻科・小児科がありました。
産科もあり私も昭和40年に田中病院で生まれました。
ちなみに、当院で長きにわたり勤務いただいているナースの松浦さんも
田中病院で産声をあげたとのことです。
私が8歳の昭和48年に祖父が解離性大動脈瘤で他界し、
大阪医科大学を卒業し整形外科をしていた父が2代目として継承しました。
祖父が兵庫医科大学創設者の森村先生や初代整形外科教授と親しい間柄であったこともあり、
それ以来、大学病院の先生方にはたいへんお世話になっております。
父が引き継いだ当時は木造建築であったために
安全性の観点から国から病院を立て替えるようにといわれ
昭和54年に鉄筋に立て替えをしたようです。
建築時には父の友人で建設会社を経営していた方から
建築は価格優先ではなく信頼できる建築会社で選ぶようにとのアドバイスがあったようで、
あの阪神大震災でほぼ被災することなく入院患者さんも安全に過ごすことができました。
父の友人と父の判断には感謝しております。
また影ながら病院を支えてくれた母は看護師でも医師でもありませんでしたが、
スタッフにはもちろん、外来に来られた患者さんにも声掛けをするような優しい女性で
阪神大震災の時には自分がケガをしているにも拘らず
外来患者さんの診察が終わるのを待って治療を受けていました。
わたくしは兵庫医科大学卒後整形外科に入局し
10年程大学病院で奉公した平成18年に病院に常勤としてもどり、
平成23年に次男の私が継ぎました。
当時、入院中の地元の婦人会会長のおばあちゃんにベッドサイドに呼ばれ
「あんたが病院、背負わなあかんで」と励まされたこともありました。
辛い経験も多くありましたが、
本日ご出席頂いたドクターはじめスタッフや多くの方に支えていただき
病院経営は軌道に乗ることができました。
80周年記念を迎えることができたことを
開業時から田中病院の医療を支えて頂いたすべての方々に感謝し、
今後、田中病院がさらに地域に信頼して頂ける医療機関として成長していきたいと思っております。
皆さまには今後ともご協力・ご指導くださいますよう宜しくお願いいたします。
院長 金澤優純